鬼城草庵(並榎村舎)

昭和12年4月18日

昭和12年4月18日

五日会句会場(応接間)

五日会句会場(応接間)

鬼城の書斎

鬼城の書斎

村上鬼城記念館(鬼城草庵)は、鬼城が晩年を過ごした「並榎村舎」を記念館として公開しております。
「旧館」には当時の住まいをそのまま残し、「新館」には鬼城直筆の遺墨を展示しております。
鬼城草庵(並榎村舎)の名前の由来は下記のとおりです。


鞘町旧居を焼け出された鬼城一家が、並榎町の現在地に転居したのは、昭和3年7月15日のことである。
当時はまったく田んぼの中にあり、日当たりも見晴らしも抜群であった新居を、鬼城は『並榎村舎』と命名し、以後の俳句活動の本拠とした。鬼城はここで『五日会』を主宰して俳句青年達を指導したばかりでなく、数多くの瞠目すべき書や俳画作品の創作に腕を振るっている。
鬼城は自ら「ハト」と称した当時の俳誌『山鳩』に、随筆「並榎村舎之記(一)(二)」を発表し、草庵から観望する赤城・榛名・妙義の上毛三山と浅間山のことを、また草庵の窓から見える烏川や碓氷川、君ヶ代橋や乗附山の有り様のことなどを、いとも満足げに描写している。鬼城は又、ここを『俳諧満室』と呼び、天下に向かって草庵への愛着を誇っているのである。

「武勇の開山のやうに唄はれる上泉伊勢守の住んでいた箕輪の里といふのは、榛名の山麓なんだが、草庵から見ると、山麓どころじゃない、殆んど、中腹位のところに在って、箕輪から、だらだらさがりに、草庵の門前まで、榛名山が来てゐる。」 (並榎村舎之記(一)より)

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